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武田信玄は山梨甲斐の国の戦国大名です。

 

武田家のの領土は今でいう長野県・山梨県・神奈川県・静岡県に渡ります。

 

山梨に伝わる郷土料理のほうとうは、「宝刀」から由来していて、戦国時代の陣中で、武田信玄が

 

自らの宝刀で調理し、ほうとうを振る舞ったことから始まると言われています。

 

前回武田信玄こそが、戦国最強の大名であるとお話しましたが、今回はその理由をお話します。

 

前回お伝えしたように、上杉謙信との川中島の戦いを第5回戦まで行い、

 

20年の歳月を使ってしまったことを説明しました。

 

 

 

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戦国最強の理由

 

今回は、織田信長が何故に天下取りの、ポールポジションにいたか。

 

理由は武田信玄と戦わなかったからです。

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1575年の長篠の戦い、武田家対織田・徳川連合で武田家は大惨敗を喫し、後の武田家滅亡発端を

 

作ってしまいました。

 

武田信玄が存命であれば、織田家とは長篠で戦ってないのです。

 

なぜなら、この長篠の戦いで、武田四名臣の、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊は

 

この戦いで戦死してしまいます。

 

この戦いを指揮したのは言うまでもなく、武田勝頼でした。

 

武田勝頼に、馬場信房をを筆頭に武田勝頼に、長篠開戦をしないように進言しますが、

 

武田信玄がいなくなってから、勝頼が一度も負けていないことと、戦国最強部隊の

 

武田騎馬隊があったため開戦を決意してしまうのです。

 

結局、織田・徳川連合軍と戦い、惨敗します。

 

殿を馬場信房が請負、勝頼は命からがら甲府に帰ったとされます。

 

信玄であれば開戦はせず、違う形で戦っていたと思われます。

 

 

理由として、昨今の研究で武田信玄は鉄砲の貿易をしていたことがわかり、戦術に

 

用いる用意があったといわれています。

 

そのことからも、鉄砲による戦術の組み方など、武田信玄であれば形にしていたと

 

考えられなくないですね。

 

 

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婚姻関係を結ぶ

 

また、織田信長は、武田家との婚姻関係を結ぶために金銀財宝を手放したと言われており、

 

織田信長が武田信玄との戦いを避けていたことがわかります。

 

キリスト教の伝承者ルイス・フロイスは日本史に、織田信長が最も恐れていたのは、

 

「武田信玄」で常に恐れていたと記載があります。

 

また、武田信玄の意思が真田家の昌幸・幸村親子に受け継がれ、豊臣政権で活躍し

 

徳川家康には恐れられました。

 

その徳川家康は、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に惨敗しその時の情けない自分を絵にいました。

 

徳川家康の戦術は、武田信玄の戦いを手本に戦ったとのことです。

 

天下人が崇拝する戦術を持っていた武田信玄は、戦国最強ではないでしょうか。

 

また部下の井伊直政の赤備えは、旧武田軍の赤備えをまるまる吸収した部隊で、

 

江戸幕府を400年も支えます。

 

 

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まとめ

武田信玄が、もっと早く上洛していれば・・・というifを考えると

 

選択は大事だなと痛感させられます。

 

選択を誤らずに生きていきたいものです。

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