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武田信玄は、山梨県甲府の戦国大名です。

 

一言で言えば戦国最強の大名です。最強というと、上杉謙信や天下取りに最も近かった

 

織田信長だと思う人もいますが、私は武田信玄こそが最強だったと思います。

 

武田信玄は、今の病名でいいますと肺の病気で、結核で亡くなりました。

 

亡くなったのが1572年です。

 

武田家滅亡の10年前です。

 

上洛中の陣中にて亡くなってしまいます。

 

なぜその時に上洛をしたかは、自分自身の最後が近いことを知り、いち早く天下を取り行ったと

 

されます。

 

 

 

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早くに上洛していれば

 

 

若くして上洛をしていれば、間違いなく天下は武田信玄によって収められたと思います。

 

若くして上洛できなかった理由の一つがもう一人の最強、永遠のライバル上杉謙信がいたからです。

 

上杉謙信とは敵対勢力ながらもお互いに、尊敬をする奇妙な関係でした。

 

地理的に、上洛方向ではない敵である上杉謙信との戦いを20年以上続けてしまうことが、

 

天下取りに行けなかった理由です。

 

相手は、戦国最強武将と言われる上杉謙信で、5回もの大戦で決着がつかず、痛み分けなので

 

武田信玄も最強と言われて遜色が無いと思われます。

 

もし、武田信玄と上杉謙信が同盟を結んでいればと思ってしまうこともあります。

 

事実、武田信玄は自身の最後、家督を次ぐ勝頼に何かあれば上杉謙信を頼るよう遺言を残し、

 

勝頼は上杉謙信の後を継いだ、景勝と同盟を結ぶのです。

 

もっと早ければと悔やまれます。

 

 

 

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演出家の一面も

 

戦国最強の部隊として武田騎馬隊の存在があります。

 

その当時の戦争に統一された騎馬部隊を導入したのは武田信玄が初めてとされます。

 

武田の黒備え・武田の赤備えはその一例です。

 

黒は重臣の飫富虎昌と赤は飫富虎昌の実弟の山県昌景の舞台です。

 

戦に色を取り入れ統一することで、精強にに見せる戦術を取り入れたのも、武田信玄と

 

言われています。

 

武田信玄は、大名として武田信玄のもとにいる人を城とする政治を行います。

 

どういうことかというと、城壁を作らず領民を大事に接したとあります。

 

領民から愛された大名でもありました。

 

良い政治を行っていたと伺えます。

 

 

 

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まとめ

 

今回は、武田信玄最強の理由の一つをお伝えしました。

 

武田信玄は人間的にも魅力があるので、詳しくは次回以降にお話します。

 

次回は、戦国最強の別の理由をお教え致します。

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